『普通』の大切さ。~県立杉戸高校をたずねて~

今日は,県立杉戸高校において塾対象説明会が行われた。
私たち塾の人間が県立高校に足を踏み入れく機会はほとんどと言って良いほどなく,折角の機会だから,とうかがうことにした次第。

杉戸高校に進学した生徒はかつて数名いた。
中でも印象的だったのは,その当時の校長先生に惚れ込んで進学したけれど,その年の春からその先生は某私立高校の校長先生に着任されていて,がっかりした,という生徒。
思えば当時の杉戸高校は元気があったように感じる。
ここ最近はちょっと元気ないような?

栄枯盛衰,酸いも甘いも体験した学校という,勝手なイメージを持っている。
そんな学校のジュクセツだ。
どんな方向へ向かおうとしているのか,どこに着地しようとしているのか,拝見したいなと思っていた。

(*´-`) .。oO(相変わらずの上から目線ですみません。


埼玉県立杉戸高校は,東武スカイツリーラインの東武動物公園駅東口にあり,駅からは徒歩7分程度,どんなにゆっくり歩いても10分と言ったところだろうか。
遅刻しそうなときは走れば5分もかからないかもしれない。
実は20数年来,私用で月に1回は杉戸高校の前の道(R4号)を通る。
場所?分かる分かる。と高を括ってルートを調べもせずに行ったため,R4号まで出て校門を探すという愚行を犯した。
俗にいう,迷子ってやつだ。
(帰宅後にお電話をいただいたメディアバンクスの梅野先生には「何で?!」と笑われた。)

駅から学校へはその手前の埼玉りそな銀行がある通りの角を右折だ。
R4号まで行かないようにね。
グラウンドを横目にうろつく破目になる。

S__16670730

S__16670728
校門付近の様子。

S__16670735

S__16670734
校内はどちらかと言うと明るい雰囲気。


お話をしてくれた先生が仰っていて印象的だったのは,
「『普通』の生徒が『普通』の青春を送れる学校」
というフレーズ。
学校柄(というか偏差値帯),中学時代は成績的にもクラス内のポジション的にも目立たない存在だった『普通』の生徒が,薄らとでも感じていたであろう悔しさを糧に,活躍していける高校を目指しているし,そういう高校になっている,という。

なるほど。

しかし,それ以降もその先生のお話には『普通』という単語が散りばめられていて,正直,
「そんなに『普通』を強調しなくてもいいのにな。」
とさえ感じていた。

うーん。
ごくごく『普通』の学校ってこと?
それって売りになるのかな。


授業見学後,その先生とお話をさせていただいた折に,その『普通』という言葉の裏側を知った。

「コロナ禍が生徒たちに良くない影響を残した。
 今までなら『普通』に踏ん張れるような場面でも,もういいや,となる。
 「もう少し頑張ってみようか」となるのが『普通』だったようなことでも,簡単に現状で満足してしまう。
 それがコロナ禍が生徒に残した,最大の影響なのかもしれない。」

そうか。
『普通』が『普通』ではなくなってしまった昨今。
つい数年前までは『普通』だったことを取り戻し,生徒たちに『普通』を体験させ,生徒たち自身の『普通』を取り戻させる。
そういうことを使命としているのか,この学校は。
実際,コロナ禍にあっても,修学旅行は中止にすることなく実施していたそうだ。
(行き先変更もなかったのか,聞き忘れた。すみません。)

『普通』であることの大切さ,素晴らしさ。有難さ。
そういうことを,学校生活を送って行く中で感じることができる学校なのだ,と気づいたときに,先生が仰っていた『普通』という言葉の奥深さと,学校の懐の広さに愕然とした。
と同時に,自分の考えの浅はかさを思い知らされた。
考えれば,一軍なんて呼ばれる特定の層だけが目立って,活躍できるなんて言う環境は,確かに『普通』じゃないのかもしれないな。

(*´-`) .。oO(「『普通』って言いすぎ。」とか思ってごめんなさい。


やはり県立高校は,いろいろな木がある森だ。
1本1本の木が,自分の役割を持っていきいきと日々を過ごしてる。
昨年度,別の公立高校にお邪魔した折に感じたことを,再確認することができた。


杉戸高校の先生方,ご多用の中,大変貴重な機会を作っていただき,本当にありがとうございました。
また機会があれば,ぜひうかがいたいです。

以下は校内風景。
授業見学もできた。
S__16670736

S__16670731

S__16670741

S__16670739
こちらの世界史の名物先生,世界地図をスラスラと板書することで有名。
…ん?某私立高校にいらっしゃった,別の世界史の先生に似ているような。
使っているオリジナルのテキストも同じだった。
S__16670737
そういえば,その方も杉高から移られていたっけ。

帰ってきた,どこはや。

4月に行われた入試講演会《どこよりも早い!高校入試の話。》の第2弾が開催されます。
お申し込みは6/1~6/9,定員は70名(2名様35組想定)となっています。
お申し込みはお早めに!⇩⇩
どこはや。リターンズ 申込フォーム

2023年度どこはやリターンズチラシ (2)



無知であるということ。

『無知の知』という言葉がある。
哲学の父とも呼ばれるソクラテスが基本とした考え方で,物事を学ぶためには自分が無知であるかを知っていること,つまり自分が如何に分かっていないかを知っていることが大切である,ということだ。

逆に言えば,知らないことよりも「知らないことを知らない」方がヤバいよね,ということである。
知らないことを知らなければ,その人の成長は見込めないからだ。
自分のことを『まだまだ』だと思わなければ,学ぼうとかその状況を改善しようとか,そもそも考えない。

授業の合間の雑談で,どの学年にも1回は聞くことがある。
「自分のこと,頭が悪いと思う人,手ぇ挙げてー。」
8割くらいの生徒が手を挙げる。
良いじゃないか。無知の知だ。
だが,それで止まってしまっている生徒がほとんどだ。
「自分は成績が良くない。頭が悪いからだ。だからもっと勉強しよう。」
とはならない。
それどころか,頭が悪い事を成績が良くないことの言い訳にしている感もある。
例えばテニスで良いボールを打ち返せないとき,「素振りをしてフォームを改善しよう」とか「筋力がないから筋トレしよう」とかなるでしょ。
それと同じなのに。

そこがね。
そこが,成績が上がってくる生徒とそうでない生徒の大きな差なんだと思う。


開智未来中学高等学校の関根均教育顧問(元校長)は
「無知は宝である。」
と先日の進学講演会の折に仰っていた。
それは,無知であることを知り,学ぼうとするから『宝』になるのだ。
無知であることを知りながら学ぼうとしないのは『宝の持ち腐れ』。


無知なまま大人になると,何れそれが『無知の恥(ち)』になってしまうかもしれない。
プロフィール

教学館

埼玉県越谷市北部にある学習・進学塾【教学館】のブログです。
日々の出来事からお知らせまで,徒然なるままに書き連ねて行きます。
なお,入塾等のお問い合わせはホームページからお願いいたします。
⇒http://kyogaku-can.com

LINE公式アカウントはコチラからどうぞ!↓↓
友だち追加数

お申し込みやお問い合わせもLINEでお気軽に。





LINEに更新通知が届く!
今日の教学館。の更新通知がLINEで届くようになりました!
ご登録はこちらから。

最新コメント
Twitter
教学館公式Twitter稼働中! フォローをお願いします。
Instagram更新中!
Instagramやってます。 日々のアレコレを投稿してます。 「教学館」「kyogakukan」で検索してね。
読者登録はこちら。
LINE読者登録QRコード
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

RSS
  • ライブドアブログ